平成11年2月22日放送
母乳とダイオキシン
東邦大学医学部新生児学教室 多田 裕ゴミ焼却場から生じるダイオキシンによる汚染が社会の大きな関心事になっています。
さらに、最近になって野生動物に雌化や生殖異常が認められているとの報告があり、外因性内分泌攪乱化学物質(いわゆる環境ホルモン)による汚染がにわかに注目されるようになってきました。
ダイオキシンにも実験動物では生殖異常や精子数の減少の様な内分泌攪乱作用が認められます。他の環境ホルモンは人体への影響が明らかになっていないものが多いことから、ダイオキシンが環境ホルモンの代表として一層注目されるようになってきているわけです。
いわゆる環境ホルモンの人体への影響は不明な点が多いのですが、もし影響があるとすれば、成人に対する影響よりは、胎児や新生児、乳児への影響の方が大きいと考えられています。ダイオキシンを環境ホルモンとして考えると、従来のような公害としての成人での死亡や発癌に影響を与える程の量でなくても、胎児や乳幼児には影響を与えるのではないかと懸念されます。
ダイオキシンは脂溶性なので、水に溶けにくく、体内では脂肪に溶けて体脂肪中に蓄積されています。母親の脂肪は母乳中に分泌されるので、母体のダイオキシンも母乳に移行します。このため、母乳哺育の新生児や乳児は、一般の食事をしている小児や成人より高濃度のダイオキシンを摂取する事になります。
いわゆる環境ホルモンとされている新しく開発された物質の多くは、使用を中止しても生活が多少不便になるだけで、一般の国民生活には大きな影響はありません。このため、影響が無いことが証明されるまではより安全である方を選択すべきであり、使用よりは中止を選ぶべきであるとの論議もあります。
一方、母乳の場合には、その中にダイオキシン類が含まれ、ダイオキシン類には有害作用があることが明らかですが、他の物質と異なることは、母乳には利点があることです。
最近の調整粉乳は改善されているので、「人工栄養でも子どもは健やかに育つではないか」との主張もありますが、母乳が不足したり、母乳を与えられない場合に人工栄養にすることと、母乳哺育が可能なのに、母乳が汚染されているとの理由で子どもに母乳を与えることを禁止するのでは意味が全く異なります。人類が哺乳類であることを止めてしまわなければならない程、ダイオキシン汚染が進行しているのかということが問題なのだと思います。
さて、ここでダイオキシンについて少し解説しておきます。
ダイオキシンは2つのベンゼン核が2つの酸素を介して結合した構造で、ベンゼン核にいくつかの塩素が結合しています。塩素が結合する位置により75の異性体があります。この他に2つのベンゼン核が1つの酸素で結合しているダイベンゾフランにもダイオキシンと同様な作用があり、これにも塩素が結合する位置により135の異性体があります。さらにPCBの異性体のCo−PCBにもダイオキシン作用があります。このように多くの異性体があるため、ダイオキシン作用が最も強い塩素が4っ付いた2,3,7,8-tetraclorodibenzo-p-dioxinの毒性を1として、各異性体の毒性を毒性等価係数(toxic equivalency factor、TEFと省略します)として定め、これらの物質が含まれている量にTEFを掛けて、物質に含まれる毒性全体をダイオキシン類の濃度として表します。toxic equivalemts:TEQと表示されているのはこの量です。
ダイオキシンはベトナム戦争で米軍が用いた枯葉剤の中に含まれていた物質として知られるようになりましたが、その頃までは殺虫剤や枯葉剤を産生する際にダイオキシンが発生することに気づかれず、夾雑物として混入していました。その後猛毒があることが明らかになり、現在ではダイオキキシン類を含む農薬は使用されなくなっています。一方、燃焼によっても生じるので、昔から山火事などでも発生していたと考えられますが、最近ではゴミの焼却量が増えたため、ゴミ焼却場や廃棄物処理場からの排出が問題になっています。
人体へは、呼吸器、皮膚からも吸収されますが、主な吸収経路は消化管で、食物から吸収されたダイオキシン類は、血液に移行し、やがて主に脂肪に蓄積します。排出は肝臓から胆道を経て消化管に出ますが、再吸収があるので体外への排泄は少なく、その半減期はヒトでは約7年半とされています。
ヒトの脂肪が体外にそのまま出る量は極めて少ないのですが、唯一の例外は母乳中への脂肪の分泌です。母乳中には脂肪が100cc当り3〜3.5g分泌されるので、母体の脂肪中に蓄積している物質の中には母乳中に分泌されるものがあります。ダイオキシン類もこうした物質で、母乳中に分泌され新生児や乳児が摂取することになります。一方、母体中のダイオキシン類の量は母乳中に排出することにより低下します。
新生児や乳児が母乳から摂取するダイオキシン類によりどの程度の影響があるかを解明するためには、我国の母乳の汚染の実態を知ることが必要です。このため厚生省の研究班では、平成9年度に4都府県毎に2箇所を選び、年齢別に各々5名の初産婦に協力を求め、母乳中のダイオキシン類の濃度の測定を行いました。
測定結果は、各地域の濃度に大きな差はなく、全体の平均値は出産後5日の母乳で、母乳中の脂肪1gあたりTEQで17.4pgであり、出産後の経過により母乳中の濃度は減少していました。また、母親の年齢や居住地とゴミ焼却場との距離にも相関は認められませんでした。このことは、母乳中のダイオキシン類の濃度は、母親が食事からどの程度ダイオキシン類を摂取しているかにより決まり、空気や土壌からの汚染の影響は少ないのではないかと考えさせる所見でした。
この様なダイオキシン類を含んでいる母乳を飲んでいると、新生児や乳児は平均で1日に体重1kg当たり約60pgTEQのダイオキシン類を摂取していることになり、成人の耐容1日摂取量(TDI)の6〜7倍となります。耐容1日摂取量とは、ヒトが一生の間毎日摂取し続けても害が出ないであろうと考えられる量の事です。
確かに、研究班の測定で明らかになった母乳からのダイオキシン類の摂取量は無視できる量ではありません。しかし、母乳には利点があること、これまでにダイオキシン類濃度の高い母乳を与えたことによる異常の報告がないこと、母乳の摂取期間には限りがあること、母乳から摂取して体内に蓄積したダイオキシン類は子どもの体重が増加するので濃度的には次第に薄まることなど、現在までに知られている所見からは母乳を中止すべきであるとする根拠はないと考えられます。
また、大阪府に保存されていた1973年から1996年までの保存母乳中のダイオキシン類濃度を測定してみましたが、近年次第に低下していることも明らかになりました。
母乳中のダイオキシン類濃度が高い例では、胎児も経胎盤的に汚染されている可能性があり、今後は胎児への影響を解明することも必要です。しかし、これまでの報告では、出生直後に母体内でのダイオキシン類汚染を伺わせるわずかな変化を認めている場合でも、母乳を与えることにより、異常が強くなったとの報告はなく、むしろ出生後の母乳哺育は効果があると報告されています。
出生前の影響も含めて新生児や乳児のダイオキシン対策を考えると、母乳を与えるか否かを議論するよりは、母体への蓄積を減少させることの方が遙かに重要であり、環境問題としてのダイオキシン対策がますます重要になってきていると考えます。