平成11年4月19日放送
日母新会長のご挨拶
日母産婦人科医会会長 坂元 正一
最も大変な時期に、会員の皆様の御信頼を賜ったことに、新役員ともども厳粛な感謝を捧げると共に、如何に責任を果すかに心を砕いています。この前の就任時は、バブル崩壊の嵐を通して裏の実体が見えはじめていて、我々の領域に及ぼしている有り様の由来を深く考えた上で、共生によって生き抜くことを訴えました。しかし、事態は昭和初期の不景気とは違って、地球規模での経済の戦いであるにもかかわらず、原因は国民を守るべき国の指導者が市民を裏切って拝金主義に走った結果、あるいはその付けでした。リストラと血税による補填を受けても未だ足りぬという銀行、基本産業、遅々として進まぬ規制緩和、政府が何処を向いているか判らぬ姿に、市民は誰を信用していいか判らず、やる気を失い呆然とするばかり。荒廃した心に人倫の道は理解され様もなく、少子高齢化がそれに拍車をかけています。まだ戦争がないだけが救いで、大国の倫理が民族の争いに火をつけて解決の糸口さえ定かでない欧州などを見れば、国連が国際連盟に退化したのではないかと錯覚するほどです。かつて私の申した願いを、もう一度強く反省点として申し上げる他はありません。
目の前の事実を知ることが難しいのではなく、それを知って時機に応じて対処することが難しいのです。自然に春秋の定めはあっても、およそ人生の春秋ほど定かでないものはないのも一因です。人生はかぐわしく品位あるべきであり、そうあるべき人や人格のある集まりに必要なのは、考え抜いた上での「果敢な勇気」と「他人の痛みを判る心」でありましょう。
そして、たとえ巻き込まれた渦の中でも、事実と要因を分析し、多くの人々の理想をまとめ、共生のために考える時を持ちたいと思います。共生でなければやっていけない時代に踏み込んだ以上、苦痛は一人一人が自ら苦しまねばならず、あがいてより苦しんでいる人々には救いの手を伸べねばなりません。あがけば沈み、自然体ならば沈むことなく浮かぶことを教え、そして呼吸する余裕を持たせるだけでもアイデアを生むゆとりが生まれます。
もし、この二十世紀最後の変革を、人類進歩の中にみられる文明史的変化と捉えるならば、適応のよしあしによって、生き残り得るものは自ら選ばれる筈であります。二つのことを強調しておきたいと思います。
第一は、時代の変遷に生き残るために“内なる自分の改革をなし遂げよ”と言うことです。高齢社会の介護保険一つをとっても、財源は保険と税金であり、社会保険の原則との絡みをどう解決するのか、加齢変化と疾病の区別の定義など不明確なことばかりです。その間で苦しむのはコンピュータ判断で取り残される数多の老人のみであり、悲惨な情況が起こるかもしれません。母体保護法への改正も、優生思想は除去されたものの、生命倫理上の問題点を解決しなければ、法として不十分のそしりはまぬがれません。生殖補助医療一つとっても、胎児や親の幸福につながる民法、刑法上のすり合わせなしに、人間の尊厳性は到底保たれないでしょう。こうした法の整備を国民のコンセンサスを得て作りあげるには、日本という土壌はあまりにも未熟な面が多く、と言うより一方的な思い込みがまかり通る面が多く、マスコミが誤解を招き易い方向へ素人を誘導しがちです。脳死、臓器移植、致死的奇形児の予後などなど“いのち”に就て、もっと真剣に互いの主張を理解することで、此の国らしい結論を導き出したいものです。
かつて山猫 wild cat という映画がありました。舞台は1860年のシチリヤ、イタリア統一直前の混乱期における貴族の物語です。「激動の転機の時代」に、古い時代に生き残った人間が、新しい世代に生きる人々にその場を譲ってゆくというテーマの中、クライマックスの台詞に示唆されるものがあります。その革命に身を投じた青年が、自分たちを支援してくれている伯父でもある名門の公爵に「貴方のような方が、何故革命を支援するのか」と尋ねます。バートランカスター演ずる老公爵は静かに答えます。「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない。(We must change to remain the same)」まさに逆説的な真理であり、人類の歴史をみても、長期にわたって繁栄した国は、例外なく自己の改革を怠ってはいません。“能力とは CAN ではなく DO である”と申します。出来ないと投げ出す前に、理想に向かってやってみる行動力つまり意志のある若者達が改革を担ったことも忘れてはなりません。
第二に私たちは“我々の世界に松明をかかげるための志をもとう。生き残るために”このことを特に申したいと思います。久しく日本人が持ちつづけた「志の高さ」の大切さを思い出して欲しいのです。我々は唯一度の戦いに敗れただけで、小国とは言え、誇りに思っていた“志”を忘れさせられたのではないでしょうか。例えば少子化問題一つとっても、そういうことが言えるのです。歴史的に人口の変化は、戦争や経済変動とそれらの体験をもとに、自己の存在と他あるいは属する集団の存在の価値を評価することによって、ヒトがヒトとして持つ独立した尊厳性とは何かを自覚してきたことが原因していると先進国では言えます。今や人は個人のみで生き難くなっているため、生き方の重点を自分側におくか、共生も含めて他人或は集団との共存に軸足をおくかによって将来はまるで変わってきます。
自覚が理想の形に完成する前に、御都合主義の不平等と“個”の自由を謳歌しはじめた為に、生物が歴史的に創りあげた慣習がくずれ、その早急な変化に驚異の目を見張っているのだとも言えます。科学の進歩は、人間の為に自然を征服し利用して当然と錯覚させたものの、自然の摂理は、自然との共生の大切さを、人間が第二の火を手にした時に我々に思い知らせる形ではっきりと示しました。国、経済圏、宗教圏などを越えて、謙虚に地球に相対することを求めたのでした。異常な少子化の解決は、我々の自然と社会を守り、それに適応することによると考えれば、答えは自分達の心の中に見つけられる筈です。国の人口問題審議会や日本医師会少子化対策委員会での経験から、生物学的条件よりもマクロ経済の不調のもとで、高齢社会にあえぐ中で更に子育て、教育費などジェンダーを越えて協力することへの自信のなさと、此の国そのものへの純粋な愛情と活性化の意欲の衰えが主因と思えるからです。こうした世情を実体にしてしまった国の指導者や大人達にも責任があるのは当然で、若い世代も共に、かけがえのない祖国を活性化することに、具体的に形のある組織作りを実行することが大切です。拙速でも実行に移す手だては、ほぼ論じ尽くされているので、早急に政策の中に反映させられる筈です。そうしなければ、高齢少子化のプロセスとしての悪循環の中に我々自身埋没しかねません。
この青い地球上で、我々を守り育ててくれる最小単位は国であり、そこに文化を形成する時、国は誇りある祖国として我々の心の中に具現されてきます。二つとない、かけがえのない祖国と思えば、自分達の次の世代に申し継いでゆこうとするのは理の当然ではありませんか。
それが閉鎖的なパトリオティズムではなく、祖国を愛すればこその尊い志だと私は思っています。一生を捧げるに足る祖国を造りあげるのは国民の義務でもあります。最終的には何事も、国民としての個人の選択にかかると思いますが、意欲と共生の意志のないところに発展はない筈です。
最後に本年開催される日母産婦人科医会創立50周年記念大会のテーマとして私が心に描いている願いを述べて会員諸氏への御挨拶の結びと致します。
称えなん いざ 遥かなる生命の創生を
- その比類なき尊厳性の維持と共生の喜びを未来への賜物として -