平成14年11月11日放送
日本産婦人科医会研修ノートNo.69「感染とパートナーシップ」より
日本産婦人科医会研修委員会委員 春日 義生
みなさんこんにちは。本日は日本産婦人科医会、研修ノート69「感染とパートナーシップ」について、お話します。
厚生労働省の統計によりますと、未成年女性の人工妊娠中絶数が6年連続で前年を上回っています。さらに、20歳未満の性交経験者の急増や、性感染症の拡大が今日の大きな社会問題となっています。次世代を担ってゆく女性が、結婚、妊娠に際して、あるいは不妊などの問題に直面して初めて性感染症を現実の問題としてとらえ、その怖さを知ることとなる場合も少なくありません。性感染症に対する知識の遅れと、それを認識しない世間の常識のずれを修正してゆくのは、私たち産婦人科医に科せられた急務であると考えて、今回の研修テーマとして性感染症を取り上げました。
また、国もその対策の方向転換を図り、従来の性病予防法を廃止し、感染症新法を中心とした性感染症に対する予防指針を制定しました。研修ノートでは、会員の先生方の理解を、より深めていただくために、従来からあるような治療法のテキストだけではなく、このような社会的な情勢もあわせて解説を加えています。本日は時間の都合で、全てをお話しすることは出来ません。各論につきましては、研修ノートをゆっくり読んでいただくこととしまして、予防指針の考え方を中心として、性感染症教育の普及啓発に役立つ項目に関してお話します。
昨年、国は21世紀における母子保健の向上をめざすことを目的として「健やか親子21」を国民運動の一環としてスタートさせました。この運動は、少子・高齢化社会での「健康日本21」運動の一翼を担っており、 日本産婦人科医会もその推進団体として参加しています。「健やか親子21」運動の主要4課題の中には「思春期の保健対策の強化と健康教育の推進」と「妊娠・出産に関する安全性と快適さの確保と不妊への支援」を含んでいます。この二つの課題は今回のテーマと非常に密接な関連を持っています。もちろん、今回のテーマである「感染とパートナーシップ」は思春期の問題だけに限るものではありませんが、長い目で見た場合、早い時期からの正確な教育と実践が、将来の感染の拡大をくい止める大きな手段となってくることを銘記しなければなりませんし、私たち産婦人科医の役割として治療だけに携わればよいのではなく、予防や教育にいかに関わるかが、社会から突きつけられた問題であると認識する必要があります。
日本性教育協会の調査によりますと、男女ともに大学進学を機会に性交経験が急増してまいりますが、妊娠を望まない性交の中で常に避妊をしているのは、その3分の2弱に過ぎません。さらに、性交の際に性感染症について心配しているカップルは極めて低い割合です。相手をよほど信じ切っているのか、あるいは性感染症の怖さについて無関心か、知らないかのどちらかであると思われます。性教育の必要性が叫ばれ、最近ずいぶん早い時期から行われるようになってきてはいますが、果たしてその現状はどうかと申しますと、教える側の性感染症に対する認識の浅さや知識不足と、生徒たちの現状や行動を把握しきっていない点が指摘されており、今後に改善して行かねばならない課題を多々残していると思われます。
感染症に罹患するには、感染源、感染経路、感受性のある個体の3要素が重要ですが、こと性感染症におきましては、長い人生において感染源との接触を断つような感染予防は成り立ちにくいものです。感染症予防という観点からは、どれか一つの要素がなくなるようにすればよいわけですが、女性の場合の特殊性としては、感染経路として無症候性の保菌者、悪意のない感染源と言う大きな役割が成立してしまいがちです。このような場合、感染の危険性を知っているだけでも感染のリスクは下がってくる場合が多いと言われており、例えばHIV感染症では、相手が感染者であることを知らないで性交した場合の感染リスクを1としますと、知った上で性交を行った場合の感染リスクは0.1になると言われています。また、性感染症の適正な管理を行っただけでもHIVに感染する危険性を42%減らせたと言う報告もあります。性感染症についてどれだけ正確な知識を持っているかが感染の連鎖を断ち切る上で、たいへん重要となります。以前は、不特定多数とのセックスが、大きな性感染症のリスク要因とされていましたが、最近の調査では性感染症罹患女子大生の6割が過去1年間1人とつき合っていたという調査もあります。性は生涯を通じた女性の健康という視点からも極めて重要な課題であり、リプロダクティブ・ヘルス ライツの大きな要素の一つとして「性感染症からの解放」が謳われています。
次に、性感染症に関する特定感染症予防指針についてお話します。以前の性病予防法では、集団としての性感染症の予防に重点を置いており、感染者を強制的に検査することも行われました。その後の感染症をとりまく諸状況の変化に対応する形で、平成11年に制定された感染症新法は、患者個人の人権を尊重し、差別や偏見なしに安心して医療をうけ、早期に社会に復帰して健全な生活を営むことが出来るよう個人の権利に配慮しました。この法律をさらに細かく規定したのが性感染症に関する特定感染症予防指針です。この予防指針は、性病予防法のような風俗営業に従事している者やそれと性交渉を持った特定の男女が対象という考え方ではなく、性感染症は誰もが感染する可能性があると言う立場をとっています。性病予防法の基本精神であった「性感染症は生殖年齢にある国民の健康問題であり、母子感染によって次世代へ影響を及ぼすことを阻止する」という重要な考え方は、感染症新法においても変わっていません。
予防指針では性感染症を単なる局所的な疾患としての考え方だけではなく、一部では全身性の疾患としての捉え、将来の不妊、悪性腫瘍への発展も起こり得ると言う考え方もしています。予防指針では、性器クラミジア感染症、性器ヘルペスウィルス感染症、尖圭コンジローマ、梅毒、淋菌感染症の5疾患を対象としておりますが、性感染症は決してそれだけではないことも明記しています。性感染症予防に向けての方向付けとしては、蔓延の原因究明、発生の予防および蔓延の防止、医療の提供、研究開発の推進、国際的関係機関との連携の強化の5項目を謳い、それらに基づいて具体的な施策を行うこととなっています。
最近のわが国における性感染症の動向についてお話します。疾患の変化としましては、起因微生物の多様化があげられます。皆様ご承知のように性感染症の代表のような疾患であった梅毒は非常に減少し、軟性下疳や鼠径リンパ肉芽腫は渡航帰りの感染以外ほとんど無く、クラミジア、淋菌、ヘルペス、HPVなどの病原体が主流となりました。多種の病原体による混合感染が多いのは性感染症の特徴の一つです。HIVのような感染性の弱い病原体では他の性感染症があることにより、3〜9倍の確率で感染しやすくなると言われています。また、感染の臨床病態が比較的軽微で自覚症状が少なく、治療を受けないまま拡大する場合が増えており、感染源となっていることを自覚しないことが大きな問題です。特筆すべきことは、性交以外の性行為による感染が増加していることです。男性淋菌性尿道炎患者の感染源の半数は女性の咽頭からの感染であると言われています。疫学的な変化としましては、いわゆる歓楽街を中心とした感染のみならず、一般家庭の中に広がってきていることです。クラミジア、ヘルペスの感染数は女性が優位で年々増加しており、特に10歳代後半から20歳代前半の女性に増加しています。若年女性患者では、クラミジア感染による肝臓周囲炎や、淋菌感染による腹膜炎の場合、正確な診断がなされないまま誤った治療を受けるケースもあり、産婦人科医以外の医師たちに対する教育の必要性も痛感させられます。性感染症の最近の特徴を一口に申し上げますと、無症候化、若年化、女性優位化でして、これらの特徴の裏には、「性の自由・多様化」と「性生活開始の早期化・性行動の変化」という社会的な問題が存在するものと思われます。
性感染症予防手段としてのコンドームの重要性は言うまでもありません。しかしながら、先に述べましたように男性淋菌感染症の半分が女性の口腔由来であることや女性の口唇ヘルペスや口腔内の単純ヘルペス1型がペニスに感染することを考えますと、使用方法の再教育が重要であると思われます。性感染症の予防が徹底しない根底にはコンドームの使用を継続することの難しさがあります。最近は女性が主導の女性用コンドームが普及してきました。
最後に性感染症の治療についてふれたいと思います。日本性感染症学会では、アメリカCDCの勧告をもとにした治療法を紹介していましたが、2001年にこれを改めてわが国の医療の状況と保険の実状に合わせたガイドラインを発行しました。研修ノートに収載してありますので参考にしてください。クラミジアでは耐性菌が出現していないと言われていますが、一方淋菌では多種多様の多剤耐性淋菌が出現し、ほとんどの抗生剤に耐性である淋菌も出現したと言われています。これは中途半端な治療を行うことの危険性を示すもので、特に性感染症患者では、一度しか来院しない患者や途中で治療を勝手にうち切る患者の多いことは、皆様良く経験されることであると思います。初診の時点でのパートナーも含めた指導の重要性を示すものといえます。パートナーの問題は、病名を告げるだけでも微妙な関係の変化を起こしてしまう場合もありますし、パートナーの治療を行わなかったり、不完全な治療だけですませてしまったために再発を繰り返したりすることがままあります。よく病気の性質を理解させ、二人を治療をすることが最も大切なことであり、完全に治療が行われるまでは中途半端で止めない、また感染の防御につとめることを納得させることが大切であると考えます。
各論に関しましては、研修ノートをご利用いただくようお願い申し上げまして本日のお話を終わらせていただきます。