明けましておめでとうございます。もの想う一年を乗り越え、初日に心ときめく元旦というより、久保田万太郎さんの句「知らぬ間に つもりし雪の ふかさかな」が浮かび、省みたくなる初春です。政治・外交・経済・医療などなどどれをとっても、国の内外を問わず、まさに混沌の中にあります。
一体、今の時代をどうみればいいのでしょう。本音と建前の解離のあまりの大きさに、あえてタブーに踏み込んでみれば、青空に美しくそびえる積乱雲に突っ込んだのと同じで、中はすさまじい乱気流、その嵐に吹き上げられて為すすべを知らずという有様です。対する手段は只一つ、目をつぶってでも、その雲より一刻も早く飛び出して姿勢を立て直した者が勝つということです。自然の恐ろしさは巨大な乱雲が一見魅力的に見え、巻き込まれると、なまじっかな経験よりも決断力を以て脱出しない限り深みにはまってゆくことです。経済も生き物です。時代が進んで、年々数万の新製品が出ても一年後に残るのは10%以下という変動の激しさです。庶民も進歩しているからです。
ファジーな世界を複雑性の論理でさばかなければ理解出来ない、まさに完全に「揺らぎの時代」に入ったと言えましょう。こうした時代、人々は新たな固有の流れを求めて揺れ動きます。固定した価値大系を押しつけても、それは無理で、人々はむしろ少しでもプラスの可能性のある方向に向かってゆくものです。「時代が親だ」と言ったのは勝 海舟です。やり直しの効く若い世代が力を持つのは、こういう時代であり、価値観を変化させてでも甦ります。それが世の常です。
総理府の調査によると90%の人がモノよりココロの時代と考えているようですが、日本人がそんなに悟りを開いたわけでもありません。既にモノそのものは十分本来の目的を達しているので、もっと格好のいい付加価値を重視する時代になったいう事でしょう。物の金銭的価値にソフト的な価値が加わったもの、知恵の価値=知価に投資する時代に入ったわけです。買い手の選択権に力がある時代です。われわれの世界ではインフォームドコンセントも整い、更に医学+アメニティも満たされるなど付加価値を持たせなければ落伍しかねないということでしょう。病院の監査一つ取ってみても、有名なボストンのM.G.Hを患者の満足度を指標にすると、施された医療の医学的レベルの高さよりもケアのよさで評価された事実がそのことを物語っています。
それでは個人あるいは組織としてはどう対応したらいいのでしょう。個人としては、先進国と同じように個人の能力を自分の努力で認めさせる時代になったのであって、他力本願では通用しないでしょう。プラトンは対話「饗宴」の中で人は恋の神エロスに導かれて愛情におぼれ、富を求め、権力にあこがれ、それが満たされてやっと知、フィロソフィアを求めるようになると説いています。それによって個の確立とスペシャリティの主張に辿りつけるのでしょう。時間がかかっても一人一人の知恵を魅力と工夫に生かした生き方として自立すべきことを教えていると思います。揺らぎの時代の中で、組織はそうした個の集合体として、一人では出来ないことを皆でやる、或はやれるように最初にフィロソフィを定め、座標を確立するものとして機能すべきものでしょう。組織と個人では考察の流れは逆でなければ生き残れないのです。
私達の領域でリプロダクションがゼロにならない限り余人を以て代え難い、そして女性医師が最も求められる医療職は産婦人科だけであることを協調して、斜陽化を嘆く人々の参考にしておきたいと思います。人間「強い希望を以て願えばそれは現実になる」ことも忘れてはなりません。
新年という節目に立って、これからの日母としてのあり方に望みたいことを三つ申し上げたいと思っています。第一は新しい揺らぎの時代に応じて、知恵・知識の世界で自信をもって大きな友情の輪をつくることです。かつて大きいことはいいことだと言われたことがあります。しかし Small is beutiful と言った人もいます。ドイツの経済学者シューマッハです。彼は「人間というものは小さな自らの理解のと届く範囲の集団の中でこそ人間であり得る」と言っています。一般論として、特によい人材の集団ならば、より一層そのことは正しいでしょう。しかし、いろんな人々の群れの中では得てして気心の知れた者だけの集団になって、そうでない人々を疎外するようになりがちです。「とかくメダカは群れたがる」では何もなりません。他の人々も快適に仲間としてあり得るようなつながりを保てることこそが大切だと思います。太陽はすべての人々に平等に輝いていることを思い起こしたいものです。
第二は常に有終の美を願って欲しいということです。昨年の夏、アトランタオリンピックは多くのことを教えてくれました。商業主義がはびこり、勝利と国枠主義へのこだわりがひんしゅくを買いました。過去の栄光をたたえる黒人への思いやりや、スポーツのもつ純粋な感動に心ゆさぶられる想いを持った数々の場面も勿論多くありましたが、参加することに意義があると言われた面影は何処にあったのでしょう。
ゴールドメダリストのマイケル・ジョンソンは金の靴で走り、その靴をスタンドに投げ入れました。しかし、東京オリンピックのマラソンの優勝者アベベは裸足でかけぬけたではありませんか。市川 昆 監督の記録映画が捕えた彼の顔のアップの中で、飛び散る汗と足のアップは鮮明に私の記憶の中に残っています。勝利は結果であって、それのみが目的ではないことを示した姿は実に清らかでありました。恵まれない発展途上国や戦場にあえぐ国からの走者や泳者が、順位こそラストになっても全力を尽くして必死にゴールを目指し、有終の美を飾ってくれました。或る新聞があれ程黒人選手が活躍した米国でありながら応援席に黒人の姿の見られないことを報じていたのを見て「どうして?」の疑問は去りませんでした。
昨年紅葉の季節を前にして、私の身内が米国の医学教育の視察に渡米しました。訪問先の一つにアトランタがありました。米国の黒人達はオリンピック会場や美しい場所に立ち入ることを許されなかったという事実が陰にあったことを土産話に聞きました。疑問が晴れても私の心の底にはよどんだおりのようなものが残ってしまいました。
医療に完結も完全と言うこともないでしょう。しかし、臨床家にとって有終の美を目指して努力する心、決してあきらめのない心が必須であることも、夏の日教訓として肝に銘じておいてほしいものです。
第三は人生は感動を求める旅であり、共に手をたずさえ助けあって旅を続けてほしいということです。生きてきた日々を振り返れば我々は常に生き甲斐を、そして感動して立ち直れる何かを探し求めてきたような気がします。私にとって人生は感動を求める旅であったと信じたいのです。時はあっという間に音もなく過ぎ去ってしまいますが、私達の行為だけは残って未来をつくってしまいます。人生とはそういうものでしょう。もしもそうであるならば、会員の皆さん一緒に今からその旅を続けようではありませんか。牛歩であってもいいのです。前に向かって、その人なりの歩を続ければ、そしてそれが虎視牛歩であるならば。年頭にあたっての私の願いをこの一言にこめて御挨拶と致します。