再び日母会長の重責を担うことになりました。よろしく御願い申し上げます。医学や医療の分野での栄枯盛衰も時代の進歩、流行や思考の変化と無関係ではありません。
ふり返ってみると、この20年間に起こっためまぐるしい変化や傾向の推移も、長期にわたって冷静な目で見さえすれば、予想されなかったわけではないでしょう。短絡的日本型思考では、何かエピソードが起こる度に騒ぐだけで何時の間にかもっと大きな渦の中に取り込まれていることに気付く余裕はなかったのかもしれません。いまこそ共生を真剣に考えるべき時です。阪神大震災が教えてくれたそんな情況に我々がおかれているのだと云うことを考えておきたいと思います。どんな物でも奪いあえば不足するのは当たりまえ。頒ちあえば余るものです。目の前の事実を知ることが難しいのではなく、それを知って時機に応じて対応して共生することが難しいのです。
淡々と先ず事実と要因を分析し、いろいろの立場の人々の考え方を判りあうのに必要な時間を費やすことが、今は、大切でありましょう。幸田文さんではありませんが、“人の心の影なんていうものは、時間をかけてみる、というゆとりが一方になければ、やはりまちがったところに行ってしまう”ものだからです。現在議会で問題になっていることは、むしろ日本医師会一本にしぼって対応すべきなのでここではふれません。三つの話題にしぼってお話を致します。これは、どれをとっても広義には、マスコミも含めて社会的レベルで結論を出すもので、医師のみで考えてよい問題ではありません。
第一の点は、極度の少子化に直面して、母児共に一層“いのち”の大切さがクローズアップされた為に、医師の医療過誤つまり医療ミスがセンセイショナルに報道され、乾いた社会に移行しつつある点です。かって日本医師会が、日本に於ては、インフォームドコンセントに“判ったからお委せする”という選択肢があってもいいのではないかと述べたことがあります。日本の文化、風土、その上殆んど単一といってもよい人々の集団の中では、自然に生まれた信頼感も大事にしたいと云うことでしょう。そうは云ってもインフォームドコンセントを適宜にしてもよいなどと言うつもりは全くありません。医療契約は信頼の上に成立つものであるだけに、医師側は悪、患者側は善と決めつけた上での情報が誤解を生み、その弊害が出はじめれば皆の不幸につながる結果になってしまいます。
医師だけは、正当な理由がない限り、法律上診療を拒否してはならないことになっていて、疲労困憊がつづいていても常に満点の診療結果が要求される苦しみなど、週休3日もとっている方々には判らないでしょう。日本の周産期医学(母と子の妊娠・分娩・誕生の予後をケアする学問と考えられればいいと思いますが)、このレベルは1960年代の近代産科のはじまった時代から先進国と歩調をあわせていて、国際的にも四つ星クラスなのです。平成6年の母体死亡率は出生10万についての数字で申しますと6.1です。先進国に比べると、スウェーデン3.2、スイス4.2、英国6.7、米国8.2、フランス11.8ですから、その低さがお判りでしょう。子宮収縮剤の使いすぎ、失敗を宣伝されますが、その嵐の中で、その死亡数は昭和60年226例から平成2年105例、平成6年76例と確実に減少しています。プロステグランディンは妊娠時期を問わず有効なために、止血は子宮収縮を主として頼る産科臨床で、如何に多くの母体を死亡から救ったかの利点は只今あげた数字でお判りでしょう。この製剤は強い下痢を起させ、それが開腹手術後の腸麻痺に利くので、製剤量の70%は外科的消化管手術の術後に使われ、本来の子宮収縮を促すためには30%しか使われていません。周産期の児の死亡率は出生1000に対しての数字で示しますが、平成6年の統計で、日本5.0、ドイツ6.0、スェーデン6.5、英国8.1、米国10.1、です。妊産婦や胎児死亡の4割は救えた筈だったと言っても、標準を何処に於て比べたのかを論じないとまるで低レベルと誤解されかねません。日本のお産の99%は施設分娩ですが、その1/2は有床診療所、更にその1/2は9床以下で診療所で取り扱われていて、その地域性のメリットが生かされて高い貢献をしていることが先程の成績からみても明らかです。それでも第三次の周産期センターに比べれば、不十分と査定する人もあり得ます。医師が責められれば、助産婦だけの分娩が一番いいと言い出す人も出てきます。健康な人の正常分娩や経産婦ばかりなら、難しい経験もしないですむでしょうが、世界的に見ても15%〜20%は手術操作や特殊な加療が必要なのが、お産のこわさなのです。私は長く教育に携わっただけに、どの人々も支援してあげたいと思いますが、是は是、非は非、きちんと整理してわかるように発言することをマスコミにも望みます。会員の皆さんも死亡ゼロを理想にしての研鑽と社会への本当のPRに努めてほしいと思います。
第二点は母体保護法のことです。やっと48年かかって少なくとも優生思想や障害者差別の条項をとったものの、法の中味にはふれられてはなく、昨年の改正時に付帯事項を付けてもらったのは私達日母が要求したからです。医療法改正等の問題が山積していて、中央では女性のリプロダクティブヘルスやライツにも配慮した改正に手をつける余裕がなさそうです。私共としては、専門医の団体として討論の叩き台になる成案をつくる必要があると考えて、会長諮問の法制検討委員会に検討してもらっている所です。胎児適応もないまま、医師が注意義務違反で有罪になった昭和58年の風疹判決、堕胎罪や減数手術なども残っていて答申が出るのはずっと先でしょう。叩き台を元にして色々な立場の人々と考えを交換し、日本の社会でコンセンサスを得られるような案を立法のために提案したいと願っています。私共が慎重に論じている最中に、マスコミはまるで一方的決定がなされてたと言って、関係する団体を故意に刺激するような報道をするのは間違っています。欧米の様に時をかけて静かに考えるべきです。万人の納得ゆく案がすぐ出てくる筈もありません。互いにわかりあうところはまとめたり、ゆずったりして日本の平均的倫理考察をすすめたいと思っています。
ここに生と死の問題が出てきました。第三点です。死を考えることは生を考えることです。どんなふうに「その時を迎えるか、迎えたいかは人それぞれであり」それぞれの意志こそ最も尊ばれなければならないことは言うまでもありません。他の誰かが代わって決定できるものではありません。私は大先輩である故 大島研三名誉教授のすぐれて感動的な随想の一部を御紹介して、人の死、そしていのちの荘厳さについて皆様の御心に浮かんだ感動を、このパートの結論にしてお話を閉じます。
それは昭和8年暮、どんよりと曇った薄ら寒い日であった。(先生の卒業2年目の頃です)結核病棟に入院中の看護婦K嬢が、もう駄目だからすぐ来てほしいと言う。田舎から出て東大看護学院を昭和6年に卒業した娘で純真無垢な子、私とは同期生、昭和7年病棟勤務中に感染した。その夜、私を加えた6人の若い医師が大部屋の隅に青白い顔をして横たわった彼女の枕辺に集まった。一人一人に静かに笑みを浮かべて、目で御礼をいい、苦しい息の中から次のように言った。「皆さん長い間本当に御厄介になりました。御指導戴いた思い出は私の生涯でいちばん楽しいものでございました。まもなくお別れすると思いますが、私の家は貧乏で何もお礼することが出来ません。私が今差し上げられるものは、死ぬ時にどんな気持ちがするものか申し上げることだけです。息の続く限り申し上げますので、皆様の研究の足しにして下さい。」それからの2時間、彼女は自覚症状を苦しい息の下から次々に告げていった。最後は「首から下の感覚が無くなりました。」「あ、いま電灯が見えなくなりました。耳はまだ聞こえます。さよなら。」私たちは言葉もなく、医学の無力さをなげくばかりであった。到底自活できない程の薄給しかも一日おきに翌朝8時まで、そしてそのまま日勤に移る深夜勤務があった。だから彼女の人情が厚かったなど言う気は毛頭ない。しかし忘れ難い思い出、いや人の心の美しさを私に残してくれた。