日産婦医会報(平成21年10月号)

本人確認と「なりすまし」

日本産婦人科医会医療対策委員会委員 田中 啓一 


受診時の本人確認と母体保護法における同意書の確認について法律上、注意すべき点を述べる。

【前提I.匿名で暮らすのが都会の暗黙のルール】

 どの社会にも暗黙のルールがある。暮らしやすいようにできあがったルールである。
 都会生活では互いに相応の無関心で暮らすことが暗黙のルールである。どこで何をしていても名前を名乗らず暮らすことができる。名前を記入し押印する時、そのつど本人確認を行わないのも暗黙のルールである。書類上に記名捺印されているのが、本人によるものかどうかを調査する義務は普通課せられていない。クレジットカードの場合、売り場の店員はカード裏の署名と利用票の署名が一致しているかどうかを確認する。制度的にはこのように定められている。しかし、署名を確認する店員はいるのだろうか? 厳格な確認が絶対の義務となれば、売り場の遅滞と混雑は避けられないだろう。

【前提II.本人確認には2種類がある】

 タイプI:名乗っている氏名の人物に目の前にいる人物が合致しているかどうか。金融機関はA氏名義の通帳を持参した人物がA氏ですと名乗ればそう信じて待遇する。提示書類等の氏名を中心に本人確認を行う場合である。
 タイプII:目の前の人物の氏名は所持している記名書類と一致しているかどうか。目の前にある人物がいるのだが、その名前をA氏と信じてよいか。つまり人物を中心に本人確認を行う場合である。

【偽名で受診したらどうなるか?】

 医療機関では受診希望者と診察申込に書かれた氏名とが一致していると無条件に考えてよい。暗黙のルールである。タイプIIの本人確認に当たる。
 どこの誰かが分からない時にも、医療行為は開始される。行路病者に医療行為を始める時、本人確認は行われず、診療希望の意思確認すら行わない。これを正当化するのは人道的配慮にある。
 患者との間では、初診の時に最初の接触がある。その時、健康保険証の提示を求め、保険診療が開始する。
 所持者と健康保険証に記載されている人物とが一致しているかは確認しない。他人の保険証を借用して受診しているのではないか? と疑うことを医療機関は求められてもいない。自費診療に際しても、名乗っている氏名と目の前の人物が一致しているかを確認することは実際上行われていないし、法的に要求されてもいない。

【母体保護法】

 同法14条に配偶者の同意の条文がある。同意書の記載に関して、配偶者本人の記載かどうかは配偶者本人が医療機関に訪れないだけに、なりすましの生じる余地がある。つまり配偶者以外の者が代わりに署名捺印することが起こり得る。同法に定める「配偶者」を民法上の配偶者と狭義に解釈して未婚者が除外されると不都合が大きいので、広義に解釈することに異論はないと言っていい。
 未婚者の場合:妊娠成立の相手方の署名捺印がなされている時、その者と当該の女性との間の妊娠かどうかを確かめることは医師に要求されていない。医師がそのような証明をすることは不可能だからである。したがって記名捺印があれば、それ以上の調査義務は医師にはない。
 有配偶者の場合:配偶者との間の妊娠成立かどうかを医師が確かめることはできない。書類に署名捺印があれば、それが真正のものかを調査する義務は医師にはない。仮に他人が夫になりすまして署名捺印した場合、女性とその夫との間で何らかの紛争が生じる可能性はある。しかし、夫から医師に対してはいかなる責任も問えない。夫の名前を第三者に騙らせた妻が夫に対して責任を負うのだ。

【結語】

 なりすましの防止に努めることは産婦人科医として必要であるが、なりすましを徹底して防止する義務が産婦人科医には負わせられているわけではない。確かになりすましを防止しなければならない生活領域がごく一部にあるけれども、そのような領域の拡大は監視社会の拡大にほかならず、暮らしにくい社会への退歩と言わざるを得ない。