日産婦医会報(平成23年2月号)涙の効用
日産婦医会医療対策委員会委員 田中 啓一
【要約】
医師やコメディカルが患者や胎児の死亡に際して 涙を流す場面は少なからず起こり得る。患者や患者家族が 涙している時に共感から涙を流すことも起こる。患者や患 者家族からすればそのような医師の態度にむしろ慰められ ている。しかしながら医師が涙を見せることに関しては医 療界に統一的な取り決めもなく、また医学教育やコメディ カル教育においても確立した指導指針がないのが現状であ る。患者への共感の一表現である泣くという行為を積極的 に評価するため個々の医療施設は患者に共感して泣くことに関して何らかの取り決めを持つことを提言したい。ただ、 涙を流すべきであるという決まりには無理があり、泣いてはいけないという決まりを持たないという消極的な取り決 めになるであろう。医学教育やコメディカル教育において も患者を前にして涙を流す局面のあることおよびその積極 的な価値を指導することが望まれる。
[初めに]
作家の丸谷才一氏の生家は山形県内の産婦人科 医院で、賑やかで景気のいい家でしたとしばしばその文章 中に述べている。産婦人科という診療科目は赤ちゃんが誕生する明るい診療科だと世間的には思われている。医学生や看護学生ですらそう認識している者が多い。現実には種々の原因による死亡が時にあり、患者や患者家族が泣き、 医師の目にも涙が浮かぶのを禁じ得ないことが起きる。
[考察]
私事にわたるが医学教育を受けたときには小児科教授から小児患者の死亡に際して医師が泣いた例を引き合いに出して患者の前で泣いてはいけないという話を聞かさ れた。おそらく現在も医学教育の中では触れられないか、 あるいは泣いてはいけないと教えられるか、どちらかであろう。他方で、ある大学付属病院では看護師に対して泣いてもよいと決めている。治療が奏功せず死亡した時に泣くことで気持ちが鬱々としないそうである。
筆者は以下の4点の理由で施設の取り決めや暗黙の気風として「泣いてもよい」を採用すべきと考えている。
第一に患者と医師の関係を良好にする。医師は感情のない冷徹な人種であると世間的には思われているらしい。涙する姿勢を見て患者は医師に人間味を感じるようである。
第二に精神衛生の見地から医師やコメディカルにとって 自然な感情を抑圧しないことには利点がある。また相互協力する医療チームの一体感を実感する機会にもなる。
第三に無用な患者と医師間の感情的対立や訴訟への発展を時には防ぎえる。「共感表明謝罪」という語が医会報平成22年11月1日号8頁に示されている。医療有害事象への対応の場面でなされるべきであるとする。共感を医療有害事象の場合だけでなく日頃から活用すべきである。
第四に一般的には涙が入り込む余地がない出産の場面でも、医師が涙を見せることは喜びの一表現と受け取られ、 妊産婦や妊産婦家族からは好意的に受け止められる。
次に短所を考えてみよう。
第一に仮に医師が涙を流すことが望ましいとしても「泣かなければならない」というルールを設けることは非人間的である。世の中には泣くことが苦手という人もいる。
第二に泣いてはいけないという施設文化が支配的な施設では泣いてもよいとする文化と衝突が起き、かえって医師やコメディカルの中に対立や反目を招く。
第三に患者や患者家族の中には泣くことが精神的な弱さの表れであるととらえる人がいるかもしれない。
第四に医師は自分自身の診断と治療が適切であったかどうかを最優先に思考する職業意識があるため、感情的な表現が抑制される傾向がある。
以上、涙することの長所と短所を述べた。その上で筆者 としては「泣いてもよい」を施設文化とすることを支持する。他人の悲しみに共感することおよび共感できることは人間の基本的な態度だからである。医師の職業倫理と対立するものではない。共感を示すとともに医師は自らの診断と治療が適切であったかを考慮することが望まれる。最後に共感することの意義を示す文章を引用する。「悲しみに打ちひしがれている人のそばに、ただただ黙っていてあげ、その人が泣いていれば泣く手助けをしてあげるのです。そうすればその人が置き去りにされ一人ぼっちで淋しく泣く ということはなくなるのです。」(H.S.クシュナー著『なぜ私だけが苦しむのか現代のヨブ記』岩波現代文庫)