1.産婦人科紛争事例の特徴と最近の動向
はじめに
他のテーマとは明らかに毛色の異なる「紛争」をテーマとする本シリーズを読んでみようとなさっている皆さまは、できることならこれまでもこれからも、医療紛争、医療訴訟、医療裁判などとは関わりたくないと思っていらっしゃるでしょう。私もまた同じ思いで、強く意識せずともちらつく紛争の影に日々怯えながら、あるいは見えないふりをしながら診療に当たっていた産婦人科医師の一人でした。しかし弁護士になって真正面から医療紛争や医療訴訟に関わってみると、以前とは少し違う見方、考え方ができるようになりました。もちろん医師として、医療紛争に関わりたくないという気持ちは今も変わらず、常に配慮を怠らずに診療に当たっているのですが、紛争をむやみに恐れ、怯えることは無くなりました。紛争の実態や争点などポイントを押さえた上で、予防のための方策と、紛争化した場合の心構えが備わっていれば、紛争を過度に恐れずに、皆様が本来目指している医療に専念できるように思います。
このシリーズでは、紛争を予防し、普段の診療業務や診療体制に生かしてもらうことを目的とし、具体的な紛争事例を紹介しながら、紛争予防対策と紛争化した場合の心構え・準備などについて検討します。まずは今回のゼミナール1で、最近の紛争事例の動向を紹介し、紛争の実態についてのイメージをみなさんと共有したいと考えています。
なお、本シリーズの内容の一部は、「産婦人科医療裁判に学ぶ 裁判にならないためのポイント」(診断と治療社)にも詳しく解説されていますので、興味を持たれた方は同書もご覧ください
Q1.紛争事例は増えているのか?
A1.1990年代から2000年代前半までは増加傾向でしたが、それ以降は減少傾向となり、2009年からは横ばいです。
図1 新受件数と平均審理期間の推移(医事関係訴訟):令和3年7月最高裁判所事務総局「裁判の迅速化にかかる検証に関する報告書」より引用
図1は、最高裁が公表している、近年の医療訴訟事件(民事第1審)についての調査結果です。訴訟件数は、1992年(平成4年)の370 件から2004年(平成 16年) の1,089 件)までおおむね増加傾向でしたが、それ以降は減少傾向に転じ、2009(平成 21)年以降は年間700件台から800件台前半で横ばい状態です。
この間の時代背景に目を向けると、1999(平成11)年には患者取り違え事件、消毒薬誤投与事件といった事件が相次いで報道され社会問題化し、これらの事件を契機として、医療機関における患者識別方法やダブルチェック、インシデントレポート等の具体的な医療安全対策が全国的に広がっていきました。2006年(平成18年)には、福島県立大野病院事件(前置胎盤の診断による帝王切開時に母体が死亡したことについて、執刀医が業務上過失致死と医師法違反の罪で逮捕起訴されるも、後に無罪が確定。)が起きました。2009年(平成21年)には、産科医療補償制度が創設されました。
図1の訴訟件数とこれらの事象を概観すると、医療訴訟が、社会全体の医療に対する見方や姿勢の変化による影響を受けている状況が見えてきます。すなわち、「医療界に対する社会の信頼度」に応じて、訴訟件数は増減しており、その総数を把握することはできませんが、訴訟に至らなかった紛争事例の数もまた、同様に増減しているものと考えられます。
現在も、一定数の訴訟事例、紛争事例は発生しておりその数はゼロにはならないものの、1990年代から2000年代前半までのような医療界に対する不信を背景として紛争事例が増加していた時代のイメージは、払拭してよいでしょう。
Q2.紛争化した場合、解決までにどのくらいの時間がかかるのか?
A2.話し合いで早期に解決する事例も相当数ある一方で、裁判になった場合には数年以上かかる可能性が高くなるなど、解決までの道のりは個別事情により大きく異なります。
図1の医療訴訟事件(民事第1審)に要した平均の期間を見ると、近年は短縮傾向にあるものの、なお25〜40か月程度(つまり第1審だけでも約2〜4年)と長く、医療訴訟以外の一般事件の平均が10か月程度であることと比較しても、医療訴訟の審理には相当な時間を要することがわかります。訴訟には至らず話し合いで早期に解決する事例が相当数ある一方で、紛争解決までの道のりは事案の重大性や複雑性などの個別事情により大きく異なります。
そもそも、紛争化した場合にはまず当事者間で示談交渉・調停などが行われ、合意に至ればその時点で解決し、合意に至らなかった場合には訴訟提起されるというのが一般的な流れですから、訴訟に至るまでに既に数年が経過していることも少なくありません。さらに、2〜4年程度の長い第1審を経て判決が出ても、そのうち6割程度が控訴審に移行し、上告審まで続く場合もありますので、解決までに長い時間を要することを覚悟しなければならない場合も一定数あります。
Q3.産婦人科は他の診療科と比べて紛争が多いのか?
A3.他診療科と比較し、突出して多いわけではありません。
図2 診療科目別既済件数割合(令和3年) :令和3年7月最高裁判所事務総局「裁判の迅速化にかかる検証に関する報告書」より引用
図2によれば、2021年(令和3年)の産婦人科領域の訴訟件数が診療科目全体に占める割合は、内科、外科、歯科、整形外科に次いで5番目に多い51件(6.2%)であり、その後に形成外科、精神科が続きます。実は、2011年(平成23年)まではほぼ毎年、産婦人科が全体の10%を超えていましたが、ここ10年程は相対的に減少し、全体の約6〜7%で推移しています。
2021年(令和3年)に訴訟当事者になった割合を医師一人当たりで単純計算すると、令和4年3月31日時点の日本産婦人科学会会員数は17,158人ですから、1年間に新たに訴訟当事者となる産婦人科医は約0.30%と概算されます。これに対し、内科0.20%、外科0.24%、整形外科0.33%、形成外科0.51%と概算されます。
このように、産婦人科領域はその性質上、紛争化しやすい傾向にあることは否めませんが、近年は、他診療科に比較し紛争化事例が突出して多いわけではありません。産科医療補償制度の発足や、医療安全に関する取り組みの定着が一定の成果を上げているものと考えられます。
Q4.医療訴訟にはその他の訴訟と比較してどのような特徴があるか?
A4.医療事件では原告が勝訴する割合が低く、その背景には、患者・家族が持った不信感が払拭されないまま訴訟提起に至ってしまった事例が多いことが考えられます。医療者側と患者・家族側の認識のギャップを埋めることが紛争の複雑化や長期化を防ぐことにつながります。
図3 第1審における原告請求の認容率:令和3年7月最高裁判所事務総局「裁判の迅速化にかかる検証に関する報告書」より作成
図3は、第1審における原告請求の認容率(原告の請求が判決で認められた割合、平たく言えば原告が勝訴する割合)を、医療訴訟とその他の通常訴訟で比較したものです。
通常訴訟の認容率が8割を超えるのに対し、医療事件では原告(患者・家族側)の請求が認められる割合が2割程度と明らかに低いことがわかります。
この事象は、「他の訴訟と比較して医師側が勝訴しやすい」などと単純に喜べることではありません。医療事件では、医療側に何ら責任を負うべき事情がないにもかかわらず、患者・家族が持った不信感が払拭されないまま訴訟提起に至ってしまった事例が多く含まれていると考えられます。
すなわち、図4のように、紛争化する事案と、真に医療側に責任がある事案が一致しない場合が多いということであり、医療者側と患者・家族側の認識のギャップが大きいことは、医療事件の特徴の一つと言えます。こじれてしまう前に、この認識のギャップを埋める努力が大切だと思われる事例が多いと感じます。
図4 医療紛争における有責事案と紛争化事案の関係
ポイント
紛争の数は、2000年代前半まで増加傾向にありましたが、現在は落ち着いており、また他診療科と比較して産婦人科の紛争が突出して多いわけではありません。
しかし、一度紛争化すると長い時間と多大なエネルギーを要することがありますので、日常の紛争予防が重要なことには変わりありません。
次回ゼミナール2のテーマは、カルテ等の記録・保存です。
そのカルテ・看護記録は、大丈夫ですか?!