子宮筋腫術後肺血栓塞栓症にて脳障害を来した事例 〈N 地裁 M 支部 2004 年7月〉
1.事案の概要
44歳の原告Sは,1995年8月X日,不正性器出血にて被告Y病院を受診.MRIにて子宮後壁にできた約9㎝大の子宮筋腫と診断された.身長157㎝,体重56㎏(BMI= 22.7),血圧131/79㎜Hg,Hb10.2g/dL,総コレステロール 169㎎/dLであった. 手術を勧められ,同年9月X日腹式単純子宮全摘出術が施行された.手術時間 43分, 出血量 140mLであり,術中・術後経過も順調であった.しかし,手術翌日の17時過ぎに「胸が苦しい」と言ってベッドに横たわっていたが,17時30分頃「トイレに行きたい」と言って1人で廊下を歩いていく途中,突然転倒した.自発呼吸はあり脈 拍も触知したが,意識は消失し,血圧は触診で 62㎜Hg であった.病棟内であったため, 直ちに他科医師の応援も求め,救命措置を施した.一命は取り止めたものの肺血栓塞 栓症に基づく低酸素性脳障害に陥り,9年経過した現在も意識が戻らず,身体障害者医療施設に入所中である(後遺障害別等級表の第1級の3に該当).
2.紛争経過および裁判所の判断
原告は,子宮筋腫の手術に際しては肺血栓塞栓症発症の危険があったにもかかわらず,これについての説明を行わず,また適切な経過観察を行わなかったため,肺血栓塞栓症に基づく低酸素脳症を来したとして,約1億円の損害賠償を求めた.
これに対し,裁判所は,次のように判示し,医師の過失を否定して原告らの請求を棄却した.
・1995年当時,深部静脈血栓症を原因とする肺血栓塞栓症は,わが国においても増加傾向にあることが認識されていたものの,肺血栓塞栓症の症状は非特異的で他の疾患でも同様な症状が出現するものが多く,急性に発症した時は診断が難しかった.
・1995年当時,肺血栓塞栓症の危険因子として,高年齢,肥満,長期臥床,心疾患, 悪性腫瘍などが挙げられていたが,逆にこれらの危険因子が存在しない時には,前記肺血栓塞栓症の症状と相まって,肺血栓塞栓症の発症の予見は困難であった.
・本件手術は良性腫瘍に対応するもので,手術時間も43分であり,出血量140mLであったことからすると,本件手術を危険因子と評価することはできない.
・1995年当時の医療水準においては,骨盤内手術自体が危険因子とされていたものとは認められず,危険因子を有する患者について,骨盤内手術が施術された場合には肺血栓塞栓症が発症する可能性があるというものであったと認められる.
・本件では,被告Y病院は,原告Sについて肺血栓塞栓症の発症を予見することができたものとは認められないから,被告Y病院は医師にこのような内容の説明義務を尽くすことが可能であったとは認められず,被告Y 病院の治療経過において, 危険因子がほとんどない患者である原告Sおよびその家族に対する説明として欠けるところがあったとは認められない.
3.臨床的問題点
対応策
2004年4月に「肺血栓塞栓症予防管理料」が新設された.手術に際しては肺血栓塞栓症予防ガイドラインに沿って周術期血栓症の可能性を説明し,血栓症対策を講ずることが必要である.
4.法的視点
本件は1995年の事例であり,当時の医療水準に照らし,子宮筋腫の手術自体が肺血栓症の危険因子とされていたとはいえないことから,肺血栓症の予見義務違反,経過観察義務違反,および(肺血栓症の発症可能性についての)説明義務違反はなかったとして,医師の過失が否定された.
しかしながら,現在は,同様の事例において,術前に血栓症の発生可能性について説明することなく,周術期に血栓症対策を行っていなかった場合には,現在の医療水準として上記の肺血栓塞栓症予防ガイドラインをはじめとする指針,ガイドラインなどが参考とされ,医師の過失が認められる可能性が高い.