産婦人科診療の夢(岡井 崇)
“研修ノート”の記念すべき第100 号を特別編とし,「産婦人科医療の近未来」をテーマにした随筆集風に仕立て,会員の皆さんに楽しんで頂こうと企画されたのがこの1 冊です.それぞれの領域の第一人者の“未来”の中に,夢を追う科学者の本気度が垣間見えて来て,精読の意欲がそそられます.
夢と言えば,今も鮮明な記憶として私の脳裏に刻まれている言葉があります.恩師の故坂元教授(本会前々会長)がFIGO 世界大会の開会の挨拶で,産婦人科学の進歩の行く末を語られた「夢を希望に,希望を現実に……」の一言句です.ここで思いつくままに,長年の夢が現実化した近年の例を挙げてみますと,周産期の分野ではいわゆる“電子スキャン(electronic ultrasonic real-time scanning)”が正にそれで,子宮の中で胎児が動く像を目の当たりにできるなど,一世代前には夢でしかなかったに違いありません.不妊生殖分野では,何と言っても体外受精・胚移植でしょう.この新技術での出産例が報告されたとき,私は仰天してしまいました.その後のART の進歩は誰もがご存じの通りです.腫瘍の分野は只今進歩中のprecision medicine ではないでしょうか.癌細胞の遺伝子変異を同定し,異常の特性に応じたより効果の高い分子標的薬を使用するという新しい治療戦略で,近い内に癌治療の主流になると期待されているそうです.
さて,産婦人科の近未来,私が関心を募らせているのはAI (artificial intelligence)です.AI は,ICT は素より今や農業や水産業までも含めたあらゆる産業,経済,教育,娯楽などなど,人間の生活と社会活動の全てに関わってきています.悪用の代表として軍事利用の活発化が伝えられる度に,医学への活用こそ急がれるべきだと思わずにはいられません.
私自身は,個人的な研究マインドのターゲットとして,胎児心拍数陣痛図(CTG)の自動判読に期待を寄せています.コンピュータによるCTG の自動診断装置は,過去にも本会前会長でいらした故寺尾教授が開発され,“トコピューター”という商品名で実用化されていました.しかし,当時は我々人間の頭で考えた論理に基づきコンピュータが判断するもので,トコピューターも,例えば「late deceleration は子宮収縮の始まりから遅れて心拍数が低下し始め……云々」の定義に従って,判読していたのです.専門家の診断知識の汎用化に止まったのは仕方ありません.更なる向上,即ちAI が人間の能力を超えるためには自己学習することが重要らしく,最近は深層学習という能力が発達しているそうです.コンピュータが人間に勝てない最後の室内遊戯と言われた囲碁で世界一を証明した“アルフォー碁”は,従来のように理論で良い一手を選ぶのではなく,これまで打たれた無限に及ぶ名局を学習した知識から,その局面でのベストの一手を選択するのだと聞いたことがあります.その学習速度がまた驚異的で,短時間の間に何万局~何百万局もの棋譜から学ぶと言うのです.今やAIのプログラム同士で世界一を競っている時代です.
これまでのCTG 記録を何億例と読ませ,出生時の児の状態と合わせて学習させれば,現存の診療基準などはどこかに吹っ飛ばして,専門医の判読より遥かに優れた診断精度を有する自動判読機が登場することは間違いないと思います.実はこの研究,敬愛する鳥取大学名誉教授の前田先生(92 歳)が現在進められておられます.近未来はそのAI プログラムが分娩時の胎児管理の担い手になることでしょう.
画像診断でも同じことが言えます.AI に自己学習させれば,人間の作成したどの診断基準を用いるより高精度の診断結果をもたらしてくれること,請け合いです.
止まることを知らない医学の進歩は,一方でこの先の人類存続への懸念も沸き起こしています.特に強い心配は,医学による“生命の永続”と遺伝子操作による人間の“品種改良”でしょう.我々の本能でもある“欲”,その欲の制御に人類の未来が支えられていると言う危うい状況はいつ破綻してもおかしくありません.人類を滅亡させるのは原爆でもなく,天災でもなく,ウィルスでもなく,AI ロボットでもなく,医学の狂乱なのかもしれません.